分かってほしいって難しい
私は昔自分を分かってほしいとよく思っていた。
自分の頭の中をぐるぐる巡っている思考を誰かにわかってほしかった。
幼少期、気が弱かった私は高学年になるといきなり自己主張の強い子供になった。
もともとその素質があったのかもしれない、 学級代表に先生から推薦されたことも変わったきっかけだと思う。
人生タイミングであり、運。 そんなのをじっと待っていてもダメだ、 自己主張しなければ、誰よりも早く、自らの手で称賛を得なければと思うようになってしまっていた。
負けず嫌いもここまでくると病的である。
この時から自分の思考を言葉にすることが好きになった。
討論の授業はもちろんワクワクした。
"犬と猫、どっちが可愛いですか?" "男と女、どっちが良いですか?" 今の時代こんな授業やるのか?結構センシティブでは?という内容だけど、定期的に討論の授業はあった。 毎回私はちゃんと自分の中でどこの角度からも論破されないようにガチガチに固めた思想を言葉にすることに力を注いだ。
結果そのまま成長した私は人同士は話し合えば分かると思うようになってしまったのである。 すごく傲慢な話だ。"口喧嘩に負けたことがない"は結局ただ相手をねじ伏せていただけだった。
そんな私が大人になり、社会に出て色んな人間と関わるようになって、逆に"分かってほしい"と言われると疑問を抱くようになった。
言いたいことは分かるけどそれを100%受け入れることが出来ない、相手の主観のみの意見など、仕事だと特に。フェアじゃないものは嫌い。 自分の正義に反するものも。
びっくりするようなことを主張して"分かってほしい"という人間もいる。 本当に色んなことを感じ悩んだ。
それであるときにふと気付いた。 分かってほしいってつまり自分を受け入れてほしいってことなんだ、認めてほしいとか 否定しないでほしい、自分に寄り添ってほしいっていう欲求なんだなあと。 なんて独りよがりなんだろう、分かってほしいのに自分は全く相手をわかろうとしてなかった。
他人に自分という存在の確立を託していたんだなと思った。
社会に出て10年。 まだ10年だけど経験して 私には全ての人を受け入れ、否定せず、優しく寄り添うなんて無理だと分かった。
自分が出来ないことを他人に求めるのは私はしたくない。 そこから別に私が私のことを分かっていればいいし、一部の人が、私の全てじゃなくていい、一部分でも分かってくれてればいいと思うようになった。
生きてきた環境、経験が違うから 絶対に意見の相違は出る。
それを分かりたい相手なのか、愛をもって接したい相手なのか、だいぶ贔屓だけどそうじゃなきゃ本当に大切にしたい人を大切に出来ない。 私の愛はそんな不特定多数に配れるほど沢山あるわけじゃない。
私が家族や彼氏、友達を否定しないのはその人達のことを分かりたいからだし、大切にしたいからだと思った。
他人に求めすぎると自分が自分でコントロール出来なくなる。解消出来なくなる。 欲求ってそういうものだ。 難しい。
このブログだって誰かに分かってほしくて書いているわけじゃない。 欲求が自分の手に負えなくなりそうなときに読んで、自分にストップをかける、いわばストッパーの役割だと思う。
自立ってよく聞くけど精神の自立はすごく難しい、、